September 11, 2001

NYのヒップホップ・ポエトリー・シーン

文:長野弘子
『ミュージックマガジン』1997年5月号


 イーストビレッジの果てにあるニューヨリカン・ポエツ・カフェは、ニューヨークのヒップホップ・ポエトリー・シーンを支える最も熱気にあふれた場所だ。特に、毎週水曜日の「スラム・オープン」には、ニューヨーク中から詩人やアーティスト達が集まり、今一番の盛り上がりを見せている。

 アポロ・シアターのアマチュア・ナイトのように、ポエト達はステージに出て詩を詠み、観客が点数をつけてショーの終わりに優勝者を決める。そこで勝ち残ったポエトは、金曜日の「ポエトリー・スラム」に出場できる。3月23日のショーでは、白人で初めてヒップホップ・ポエトリーを始めたというケヴィンが優勝した。その夜も、ダンサーやジャズ・シンガー、または俳優などで、このカフェはポジティブなエネルギーに満ちあふれていた。


 常連のポエトで、彼自身も「リリック」というヒップホップ中心のショーケースを主催しているヒップホップ系ポエトのファリード・アブドラも来ていた。彼も詩を詠んだ。自らも「MCに近い」と認めるヒップホップのアクセントを持ったその詩は、オールドスクール・ラップに捧げる即興の詩だった。本物のポエトは、即興ができると彼は言う。

 彼のショーケース「リリック」に来たオーストラリアのラッパー、ババ・イズリオンも、ステージに上がったコメディアンへのリスポンスとして、その場で素晴らしいフリースタイルの詩を披露した。ババはオーストラリアに帰って「ザ・ブリッジ」という初のヒップホップ劇を製作し、数々のポエトリーおよびラップを収録したサントラ盤CDを出している。

 先日マジソンスクエア・ガーデンで行われたオールドスクール・ショーに多くの人々が集まるなど、今ヒップホップは、オールドスクール回帰の方向に確実に向かっている。2パック、ビギー・スモールという東西を代表する2大ラップ・アーティストの死を通して、ようやく若い黒人達は自分達のネガティブなイメージが自分達を蝕んで行くということに気づき始めた。

 オールドスクール回帰とは、その音楽スタイルを模倣するということではない。ヒップホップが誕生したときの目的を取り戻そうという、より内面的な動きだ。ファリードは、オールドスクールに遡ると、ポエトリーに到達せざるを得ないと言う。なぜなら、それがヒップホップの起源だからだ。

 それでも、ヒップホップを体験した若い世代のポエトは、昔のポエトとは決定的に違うフレイバーを持っている。たとえば、たまたま会場に来ていたリーダーズ・オブ・ニュースクールのチャーリー・ブラウンが詠んだフリースタイルの詩は、詩というよりも、MCに近かった。しかも、ファリードが言うところの「ポエティック・ライセンス」(通常の英語の文法や記述法に従わない自由な表現方法)を確実に持っている。その要素は、ポエトリー、オールドスクール・ヒップホップ、そしてニュースクールへと確実に受け継がれてきたものだ。

 しかし、それがギャングスタ・ラップというネガティブなイメージのみを商品化したラップによって硬直化してしまっていた。それを取り戻そうという動きが、今のヒップホップ・ポエトリー・シーンなのだ。

 ポエトリー・リーディングに来る人達は、皆作られたステレロタイプのイメージにこだわらない人達が多い。その多くはカレッジ・キッズやヤング・アダルトだ。また、最近のショーケースでは、会場に2、300人近くの人が集まることもあり、ポエトリー人口は増殖し続けている。CD化もされつつあり、ヒップホップ系ポエトのボブ・ホーメンは「ラップ・ミーツ・ポエトリー」を、またブロードウェイ俳優でポエトのレジー・ゲインも2枚のCDをリリースしている。また、長年ニューヨリカンでホストを務め、バイブ・マガジンなどの雑誌ライターでもあるバビト・ザ・バーバーもテレビやラジオに出演している。

 黒人コミュニティにおけるポエトリーは、ヒップホップと再び融合することによって、新たな若者達の表現手段となりつつある。また、オープン・マイクに集まる人々は、ヒップホップのオーディエンスより、人種や年齢、文化、性別などの多様化が進んでいる。マンハッタンだけに留まらず、ブルックリンのムーン・カフェや、サウス・ブロンクスのポインツなど、コミュニティを基盤にしたポエトリー・シーンは着実にニューヨークを侵食しつつある。

Posted by hiroko at September 11, 2001 03:27 PM | TrackBack
Comments
Trackback
Post a comment









Remember personal info?