イースト・ヴィレッジの果て、スパニッシュ街に足を踏み入れかかったところにある NUYORICAN POETS CAFEでは、毎晩オープン・マイク・ショー(参加したい人は誰でもパフォーマンスが出来るショー)をが行われ、若い詩人や歌手、ダンサーやラッパー達のパフォーマンスをやっている。その中でも、 FareedというNuyorican Moroccan(プエルトリコとモロッコの文化的背景を持つニューヨーカー)がホストを務める 「Lylics: hip hop poetry showcase」は、いつも若い詩人やアーティストたちであふれている。
モロッコから帰ってきたばかりのFareedが行った1996年8月3日のオープン・マイクでは、合計20人以上ものアーティストたちのパフォーマンスがあった。パフォーマーもオーディエンスもほとんどがブラックやヒスパニックの若者達。今まで何回かポエトリー・リーディングには行ったが、こんな熱気は味わったことがなかった。ステージのバックには、ドラマーとモロッコのフルート奏者、それにDJが、それぞれのパフォーマーに合わせて音楽と言葉を紡ぎ合わせていく。ステージの横では、グラフィティ・アーティストが「Lylics」と大きな飾り文字をカラー・スプレイで慎重に塗り重ねている。彼は毎月名前が変わるので、皆、ただ「グラフィティ」と彼を呼ぶ。
最初の詩人、一見するとSnoopのような飄々とした物腰にビッグアフロの若者は、ステージに立つと同時に「僕は、人間」と歌い手のような口調で語りだした。「僕は、人間。レーベルを貼ることの好きな人は僕のことをアフロ・スパニッシュ・ニューヨリカン・ボヘミアン・ポエトとかなんとか言うかもしれないけど、僕は、、、」彼の静かで深い声が途切れると、皆、合いの手を入れる。ここでは、失敗するのを待ちかまえるかのように喜んでブーイングをする人間は、一人としていない。皆、パフォーマーであり、皆、オーディエンスだから、お互いの気持ちが分かるのだ。終わった後の拍手は、Fareedが「もう一度、パフォーマーにビッグ・リスペクトを」とアナウンスをするかので、必ず2回になる。
7〜8人のパフォーミングが終わったあたりで、Fareedのポエトリー・リーディングが始まった。今回の彼の詩は、オールド・スクール・ヒップ・ホップに捧げるものだった。彼が子供の頃、B-boyスタイルがどんなにかっこいいものだったかというラップの始まりから、今のギャングスタ・ラップにいたるまでを、生ドラムのファンク・ビートにのせて歌い語った。DJ クール・ハーク、アフリカ・バンバータ、ズール・ネイション、シュガー・ヒル・ギャング、ヒューマン・ビートボックスのビズ・マーキーなどの歴代のラッパー達の名前が、次々に挙げられていく。彼のポエトリーを聴きながら、本当に、ヒップ・ホップ文化というのは巨大だと実感した。メジャーな名前を挙げていくだけで、もうきりがない。一人一人の音楽からライムに至るまで、その多様な才能を説明していけば何カ月もかかってしまうだろう。
Fareedは、第2のラップの波であるパブリック・エナミーやKRS-Oneのところで特に力を込めて、「皆、KRS-Oneの、ライムを聴け!」と何度も繰り返した。そして、ステージの横の「Lyrics」という飾り文字のグラフィティ・アートを指さして「Lyrics!Lyrics!Lyrics!これが一番重要なんだ。Lyricsを聴け」と叫んだ。その時、突然、彼がどうしてこのオープン・マイクを主催しているのかが分かったような気がした。以前、オールド・スクールのラッパーKG(もとクラッシュ・グルーブ)に「なんで、女性を差別しているようなラップを、女の人たちは気にせず聴くわけ?」と尋ねた時、彼は「ビートだよ。皆踊っているときにリリックなんてきいちゃいないのさ」と言ったのを思い出す。Fareedは、そういうラップの形骸化に異議を唱えているのだ。
ラップは、もともと人々をつなぎ合わせるものだったのだ。それが、ビート中心、スタイル中心に偏って、単純な商業主義の手段になりさがってきた。KRS-Oneも最近はずっと「オールド・スクールに戻ろう」と言っている。ラップが始まった時の、あのポジティビズムを、また皆取り戻したいのだ。最後の方で、Fareedがビギー・スモールの名前を出すと、オーディエンスの中から嘲笑の声がひびいた。ビギーのクラブでの逮捕劇は、彼が、ラップのリリックにある人生観そのものの生活をしているということの証明で、皆そういうライフスタイルや不幸な話には飽き飽きしているのだ。
その後、私の友達のBonhommeもポエトリー・リーディングを行った。彼は、Charles Mingusに捧げる詩を詠んだ。また、彼の友達のMichaelは、フリースタイルのラップを披露した。皆が、外から受けるステロタイプや、彼ら自身の中にある壁を打ち破ろうと自分を真剣に表現している姿は、何かが生まれる瞬間だと感じた。Fareedによると将来的には、このショウケースのライブ盤CDを出したいという。数えきれない才能と文化の多様性を、ただやみくもに恐れたり否定するのではなく、ごちゃまぜのまま受け入れている彼らは、いい意味での精神的マイノリティだ。このニューヨークでも、そういう人達は少ない。だから、このショウケースに集まる人達は、アーティスト一人一人に対してのパフォーマンスの次のリスペクトの拍手を忘れない。