60年代後半のシックネスとユートピア思想がごちゃ混ぜになったANDY WARHOLのスタジオ「Factory」と、現実世界の一番シビアな場所であるストリートを、パンク批評家Mary Harronがアートとして描いた。アート・ドキュメンタリー・フィルム流行りの中で、社会問題を取り混ぜながら、この歪み自体がアートだと彼女は表現した。
アンチ・フェミニズムの映画。Valerieの主張する、男性は女性に遺伝子的に劣っているという論議は、フェミニズムの中でも過激派のもので、リブ運動を真剣にやっている人たちにとっては、運動全体が誤解されてしまうとして危惧を抱かせるものだった。しかし、この映画の中では、フェミニストはがさつで何もわかっていない人々のような描かれ方をしている。ドラッグ・クイーンにしても、ステレオティピカルな描かれ方だ。フェミニスト達がデモをやっているところがTVで中継されているのをValerieとCandyが観ていた時、Candyが、「こんなハードなやり方は、私は好きじゃないわ」と言う。それに対してValerieは、「私は、あの場所にいるべき人間なんだ」とつぶやく。男女の役割やイメージがここでは逆転している。
そして、そのどちらも魅かれるのが、権力の象徴であるANDY WARHOLなのだ。彼は本当の意味で、Valerieを助ける人ではないのにValerieは、Andyに最後まで食いさがって彼に助けを求めるのだ。Candyは、Andy自体よりも彼の持つHypeなものに惹かれる。しかし、同じアウトサイダーとはいっても、Valerieが人間の内面性を求めてそれをジェンダーに押し止められることなく解放しようとしたのに対して、Andyは、まさにその逆だったのだ。つまり、人間の外面性を尊重して、外面がHypeでないものを排除しようとしたのだ。一般人から見れば、目も眩むようなきらびやかな世界がそこには存在していた。しかしそこにあったのは、Andyの取り巻き達が創り上げた虚偽の世界のみだったのだ。だから、Valerieが求めた思想や社会的態度などそこには入る隙がなかったのだ。お互いに理解出来ない人達が、ValerieとAndyの取り巻き達だったのだ。
男性は遺伝子的に女性よりも劣っていると信じきっていたValerieは、売春をやっていた。男性を罵倒しながらも男性にお金を乞わなければならなかったValerieは、その生き方自体が矛盾に充ち満ちている。彼女の態度や思想自体が、彼女の否定している「男性的」なものなのだ。Valerieが、化粧をするシーン。「ヨタ者宣言」(Scum Manifesto)という彼女の著書を出版してくれるかもしれない、いけすかない男性のため。彼女自身が化粧をしたいのではなく、化粧をする事によって他人の心証を良くしようとする。それは、ゲイでトランスバスタイのCandyが化粧をするのとは、まったく理由を異にする。Candyが化粧をするのは、他人に綺麗だと思われたいというよりももっと自己満足的なものだ。
女を武器にするという事は、実は男性的な戦略だ。Valerieが使ったすべての方法や武器は、実はすべてValerieが批判するところの男性的特徴を持ったもので、Valerieが男性社会の犠牲者だと馬鹿にしていたドラッグ・クイーンのCandyの方が実は、内面的にはValerieが賞賛していた「女性的」特徴を持っていた。Valerieが銃を手に入れる事になったニュー・レフトの男性と彼女はどちらも似たような性質を持っていた。彼女が男性だったならば、きっとこの男性のようになっていただろう。TV番組に出された時のValerieのナレーターに対する反応にも、Valerieが批判するところの男性的特徴が表れていた。対話ではなく暴力で自分の意思を表明しようとしたからだ。
男性は男性らしくとか、女性は女性らしくとかいう言葉自体がだんだん意味をなさなくなってきている。人間らしくという事が一番重要な事だが、その意味でいえば逆にValerieほど男性や女性といった枠づけに収まらない人間としての人間はいなかったのではないか。しかし、それに気づくだけの文化的・時代的背景がなかったため、彼女は不遇なまま一生を終えた。現在、この国の書店では、今でも彼女の著書「ヨタ者宣言」が売られている。
Posted by hiroko at September 21, 2001 05:03 PM | TrackBack