ヒップホップをアートフォームとして捕えようとするラッセル・シモンズが、今度はラップの歴史を振り返るドキュメンタリー映画「THE SHOW」に挑んだ。デフ・ジャム・レコード、そしてヒップホップの洋服ブランド「ファットファーム」をオープンし絶好調の彼だが、今回の映画は地元のホームボーイ達には受けなかったようだ。
フィルムの中で、ラッパー達は彼らの日常を語る。ビギー・アンド・スモールは「今日死んでも明日死んでも同じ。金はない、望みはない、ストレスは溜まる一方。何もかもがどうでもよくなってしまう。歌がヒットして有名になってからも、時々同じ気持ちを感じるんだ」と語った。物質的な呪縛と社会的抑圧から抜け出せない、ラッパー達の魂の叫びは悲痛だ。しかし、ラップをアートフォームの一つとして捕らえる他の視点が大きく欠けている。つまり、日常を芸術にどう昇華させるかという部分がまったく描かれていなかった。
「THE SHOW」の中でラッパー達は、ただのレイジー・アースになりさがっていた。ウィードを吸ってだらだらしたりトークシットしたり、、。勿論それが、彼らの日常の一部を描いたものであるのは確かだ。インサイド・トラック(模範社会)の白人達にとっては珍しいから一見の価値もあるかもしれないが、ゲットーの黒人達から見れば珍しくも何ともない。だから、このフィルムを見るほとんどの黒人達は、退屈で死にそうになる。唯一バイブマガジンのブラックスポットが、このフィルムを何度も見たと言っているが(勿論それはギャグで言っている)。
ラッパー達は、ラップの中でいかに日常/ストリートを再現するか苦心する。しかし出来た作品は、やはり日常/ストリートとは違うものだ。このフィルムでは、日常をアートに変える瞬間が描かれていなかった。それは、日常で体験する非日常的瞬間---レコーディング中トランス状態になったシンガーや、小さなクラブのオープン・マイクで言葉と音を瞬間に融合させるアマチュアラッパー達、ドラッグと音楽を注ぎ込んだ身体で限界を越えた動きを永遠に続けるダンサーなど---彼らは、物質がエネルギーに変わる瞬間を創り上げる練金術師だ。あらゆる芸術は、日常の中に遍在する魂を非日常の共通意識へとトリップさせる。サブジェクトが日常/ストリートでも、彼らの錬金術師的な資質がラップというアートを創り上げる。
ドクター・ドレが映画の中で言う「WAY OUT」という言葉を、セルアウトと受け取ってもいい。また、ゲットーに住む黒人達への同情を感じてもいいが、それは、何かが生まれるきっかけや環境設定に過ぎないのである。ラップもサブ・カルチャーからポップ・カルチャーへと移行し、創り手もライムの内容も変わりクロスオーバーしつつある。そして、ブルースやジャズと同じように難解な解釈や批評に汚されつつある今、「THE SHOW」はその転換期として出来るべき映画だった。それがああいう映画になって、残念だ。
Posted by hiroko at September 21, 2001 05:03 PM | TrackBack