September 21, 2001

SUTURE

[ Films ]

 1992年のサンダンス・フィルム・フェスティバルで賞も取ったこの映画のストーリーは、非常に単純である。異母兄弟と推測されるクレイとビンセントという二人が入れ替わり、クレイが裕福な生活を営んでいたビンセントになりすます。しかし、映像に現れるクレイは黒人、ビンセントは白人で、似ても似つかない。しかし、皆それに全く気づかないという設定が、非常に強烈で新鮮だった。

 オープニングでは、「人間は何を基準にして自分というものを認知するのだろう」と詩的な語りが、銃を持つ二人の男の映像と重なる。何を基準に?外見?それとも性格で?それともその両方で?また、それは誰が決めるのだろう。自分で自分だと認知すれば、それでいいのだろうか。「SUTURE」(=縫合線)は、そんな疑問を投げかける。そしてその疑問は、映画の中の人間と、それを観ている観客との間で二重に進行していく。

 映画の中の人間は皆、外見がとても似つかぬ二人を同一人物だと思っている。その事が、観客に大きな混乱を与える。果たして、いつクレイがビンセントじゃないとばれるのだろうか?映画の途中で観客は、二人が瓜二つという設定になっていると気づくが、ハラハラと苛立ちが混じり合った複雑な感情は消えることがない。そして、最後にとうとうクレイがビンセントになり仰せて映画の幕が下りる時に初めて、観客は監督の笑い声を聞くのである。

 観客にとっては、外見が違うのは一目瞭然なので、二人の違いというものをよく把握できる。しかし、映画の中の人間は、クレイとビンセントが外見上全く同じに見えるのだ。だから、それによって繰り広げられる周りの人の反応は、私達観客にはどこか変なもの、滑稽なものとして映る。しかし、私達はそれを見ながら心のどこかで、二人の外見についてのこだわりや違和感を終始感じている。

 どこから見ても似ていない二人を、同じ人間だと信じて疑わない。それは、明らかにおかしな話だ。しかし、それは外見に表れているから分かる事であって、目に見えない心に関しては、私達は同じ間違いを犯しているのではないだろうか。監督が言いたかった事は、その事だと思う。何かしっくりこない気持ち、それが私達の既成概念に捕われた心を象徴しているのである。この映画で現れる外見は、実は心の中の表象なのである。そして、クレイがビンセントとして生きていこうと決心した時に、クレイという一人の人間の魂はそこで死を迎えたのではないだろうか。

 そういった内面と外面の問題の他にも、この映画は、数々の相反するイメージの重なりで構成されている。例えば、フィルム自体がモノクロで、クレイとビンセントの白と黒というイメージをより鮮明に浮かび上がらせている。また、顔や身体の特徴がその人間の性格を表すものと信じている形成外科専門の女医と、その一方で、人間の目に見えない部分である精神を研究している日系アメリカ人の精神科医との会話など。監督自身は、どちらの立場を取るのか。

 この映画は、自分というものは一体何かという疑問を投げかける。もしあなたなら、ビンセントになりすまして彼の豊かな生活を送る事を選ぶか、それとも本当の自分に帰るだろうか。


Posted by hiroko at September 21, 2001 05:05 PM | TrackBack
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