セント・ニコラス通りと125丁目の交差点近くのアパートに住んでいた時、私の部屋の上の階にはアイリーン・ミラーという敬虔なキリスト教信者が暮らしていた。彼女は、毎週日曜日には必ず教会に行っている。その日彼女は、私を教会に連れて行ってくれた。
午前11時半、私達はアパートを出てグレイター・リフジー教会(GREATER REFUGE TEMPLE)へ向かった。125丁目を東に進んでアダム・クレイトン・パウエル・ビルの四つ角を右に曲がると、ストライプに塗られた四角い建物が見えてきた。それが、教会だった。階段を登り入り口のドアを明けると、そこはもう既に会場だった。ゴスペルが流れ、壇上の人々はライトに照らされ、輝いていた。歌が終わるのを待って私達は席に着き、もう2〜3曲ゴスペルを聴いた。
次に、牧師の話が始まった。最初は静かに、そしてだんだん力強く神の教えを説き、最後には叫びながら神を讃えた。そしてそのままゴスペルを歌いだし、それは聖歌隊の力強く美しい声と重なり会場の人々も一緒に歌いだした。人々は思い思いの方法で神を讃え、自分達の苦しみをそこで洗い流すかのように手を上げたり頭を振ったり涙を流している。
私は、二曲目に流れたアップテンポの曲で、人々が立ち上がり体を揺らし神を讃えて歌っているのを見て、涙がなぜか溢れてきた。人々の祈りと叫びが大きな渦になって私に押し寄せてきて、私はそれに飲み込まれ、その集積が私の心を揺さぶったかのように感じた。それは、ただ本当に感じたのだ。理屈も説明も難解な理論もなにも要らない。純粋な祈りはただそれだけで、人の心を揺り動かす何かを持っているのだろう。
私は、本当に泣いていた。私のすぐ前に座っていた黒いスーツを来た男の人は、歌の途中で立ち上がり、体を揺すり手を叩き足を踏みならして神に祈りを捧げていた。その前の席の女性は、両手を空に高く上げ、神の名を叫びながら、泣いていた。私は、彼らがなぜ強いのかが分かったような気がした。日常生活で受ける受けるいろんな圧力を、彼らはここで祈りの力に変換する。だからこそ、彼らの祈りはこんなにも強くて純粋な力を持つ。
ほとんどの日本人は、教会には行かない。それぞれの家に神棚や仏壇を持っており、それらに毎日供え物を捧げる人は多いが、慣習の一つとしてである。何か克服すべき問題を抱えている人や、人生を真剣に生きようとしている人ほど祈りに対する欲求が強いのではないだろうか。だから、日本人より彼らの方が、祈ることに対して数倍真剣なのだ。
祈りというのは、一人で祈るよりも大勢で祈った方がそのパワーは大きい。同じ場所で同じ歌を歌い全員で神に祈りを捧げるという行為は、目に見えない何か大きな力を生み出しているように感じる。それにより、人々は一体感を体験し、他人も自分だし、自分も他人の一部だと気づくのだろう。
教会を2時に出て、私達はアイリーンの家に戻った。娘で14歳になるデビーとしばらく話し、ソウルフードを一緒に食べた。(1996年11月2日)
Posted by hiroko at September 21, 2001 06:26 PM | TrackBack