文:長野弘子
(熊日新聞 第16回連載/2000年4月掲載)
ニューヨークからシアトルに引っ越してはや5カ月、ご近所さんとの交流もぼちぼち始めるようになった。隣の家に住んでいるテッドは、私がいないときにうちの両親から送られた小包を預かってくれるなど、親切で優しいお爺さんだ。そんなテッドと先日話していたら、思いがけず興味深い話を聞いた。なんでも、彼が卒業した高校では、生徒の半数近くが日本人だったというのだ。彼が高校を卒業したのが1939年だから、かれこれ60年以上前の話である。

卒業アルバムを見ながら、60年以上前の思い出を振り返るテッド。今年で80歳を迎えるが、彼の奥さんは昨年亡くなった。
「そんな昔に日本人が米国に住んでいたの?それも大勢?」私はさっそくテッドの家に行って、卒業アルバムを見せてもらった。金髪に青い瞳に混じって、なんと多くの日本人が混じっているではないか?不思議だ。なんでも、彼らの多くは庭師を営んでいたらしい。

テッドが卒業したのは、シアトルよりもさらに南に下ったオーバーンという小さな町で、住民の多くは木材や鉄道関係の仕事を営んでいたという。テッドは「僕は野球のチームに入っていて、よく日本人と一緒にゲームをしたよ。とくにジョー・ニシモトとは気が合ったな」と語る。卒業式の式辞を述べたのは、日本人女性のリリアン・シマサキさん。彼らの多くは二世なので英語がペラペラで、成績も優秀な人が多かったそうだ。

しかし、第二次世界大戦が始まってから、敵国日本人は全員、強制収容所に入れられることになる。当時、彼らがどこに行ったのかは、アイダホ州かオレゴン州という情報はあったが、何しろ戦時中のことでまったく分からなかったという。


卒業アルバムに収められたテッド(左)とジョー(右)の写真。この後、戦争が2人を引き裂くことに。
「米政府がやったことは、大きな間違いだ。彼らは他のアメリカ人と同じように一生懸命働いて、本当にいい人達だった。それなのに、彼らの土地や財産を没収して、他の土地に強制移動させるなんて、本当に憤りを感じる」(テッド)。
その後、テッドはニシモトさんと再会する。卒業から半世紀たった1989年、オーバーン高校の同窓会でのことだ。テッドは「戦争や強制収容所のことは、まったく話題に出なかったよ。多分、嫌な思い出だから話したくないんだろう。高校時代の楽しい思い出話に花を咲かせたよ」と語る。

同窓会の写真。158人いたテッドの学年の生徒も集まったのは3分の1。亡くなった人も多い。一番右がジョー・ニシモト氏。
同窓会が開催されたのは、高校からさほど遠くない場所で、戦後オーバーンに戻ってきた日本人も多かったという。ニシモトさんもその一人だが、シマサキさんに関しては分からないという。強制収容所に連れ去られた日本人の痛みは、同様にアメリカ人の痛みでもあるのだと感じた。