私の知り合いのWさんとメールで話していたとき、
オーラに関して面白い話を聞いた。
あるとき、舞踏の友人から、 オーラが出ているようではだめで、 気を吸い込むような自然体こそ、我々が求めるものだ、 と言われ、ぐーのねも出なかったことを覚えています。俳優や芸人たちがオーラを出しているのは、
よくわかりますが、だめらしいです。カメレオンのように、背景に溶け込むことこそ、
気の本質で、ふつうのなんの変哲もない人たちのなかにこそ、
きわめて深い、生の本源をもっている人たちがいるそうです。
話は少しそれるが、日本の伝統芸能は、いかに装飾を削り落としていくかが本質にあると聞いたことがある。舞踊をやっている人が、踊りの動きをそぎ落とした結果、1つの動きに意味が集約されると言っていた。
ある意味、自然にも無駄なものはないので、簡素さのなかにこそ生の本源があるとも言えるかもしれない。
話はちょっと変わるが、先日ニコラス・ケージ主演の『アダプテーション』という映画を観た。そのなかで印象に残った言葉が「人が何かに夢中になるという行為は、巨大過ぎて把握できない世界に対して、他のものをすべて排除することにより、理解できる範囲に世界をそぎ落とす行為だ」というものだった。
ミニマルアートが全盛だった70年代、絵を描かない行為が究極のアートであるとして、絵を描くのをやめたアーティストが多数出たそうだ。表現しないことも、表現することの一部だということかもしれない。
だいぶ以前に舞踏の人たちと音響の仕事でつき合いがあったころは、稽古や舞台などで長い時間いっしょに過ごしたことがあります。そのときに特にオーラの話がでたことはなかったけれど、でもその「そぎ落としていく」というのはすごく感じました。ほんとに最後は、そこにスッと立っていることがすごい意味に感じられるようになってきます。そこに立っていると云っても、微妙なポーズや僅かな指の仕草など全部が含まれているからなのですが。
ただ舞踏の祖といわれる土方巽について始めた人たちもその後は色々な流派に分かれていって、少しずつmethodの違いが出ていきました。内面からのものを重視する派と舞台のスペクタクルを多く取り入れた派など。
ところで、ジョンケージの「3分43秒」は、「表現しない表現」にいきついた音楽のひとつではないかしら。
Posted by: gt at September 29, 2003 10:43 PM観阿弥・世阿弥の『花伝書』でも、演じることの究極の形は、物事を見極めつづけた結果、もはや似せようとする必要のない境地にまで達するということを聞いたことがあります。
ジョンケージ、私はあまり詳しくないですが、以前クラシック音楽を勉強している人に日本の前衛(?)クラシックコンサートに連れて行ってもらったことがあります。そのときその人は「みなジョンケージの真似だ」と怒ってました。とてつもなく退屈なコンサートだったのですが、既存のものを破壊して新しいものを生み出すという意図というか意志のようなものが駆け落ちていたような気がしました。
「3分43秒」、賛否両論あったのでしょうが、その時代のその瞬間に、同じ空気を共有したことに意味があるのでしょうね。
Posted by: hiroberg at October 2, 2003 05:59 PM