横浜美術館で開催中の『ノンセクト・ラジカル 現代の写真III』で、あるひとつの展示が直前で中止された。REALTOKYOの小崎さんのコラムに詳しいが、その作品とは、手足を動かすことができない重い障害を持った男性の自慰行為をビデオに収めた高嶺格(たかみね・ただす)の『木村さん』という作品。局部が映っているため、法に触れる可能性があることを考慮し、展示を取りやめたという。
小崎さんのコラム:
「画竜点睛を欠きましたね」。担当学芸員の天野太郎は、僕の質問を待ちもせずに開口一番こう言った。僕もそう思う。『木村さん』はたった9分の小品で、登場するのは一級障害者である木村さんと高嶺だけ。それも高嶺は、目と手と声だけである。だがそれだけで、戦争や差別や支配被支配をテーマとした他の作品と十分に拮抗している。いや、個人の内面の奥深くにある強い衝動に踏み込んでいるという点で、表面的には外部をテーマとする他の作品と一線を画し、それらとの相乗効果を期待しうる作品であるとも言える。作品の質の高さもさることながら、「画竜点睛を欠く」というのは主にそういう意味だろう。
何をアートとするのか、その作品が本当にわいせつなのかは判断基準が分かれるところだが、個人的には、ダムタイプのパフォーマーであり、『God Bless America』ほか身体表現を使ったユニークな作品を作っている高嶺さんの展示は見たかった。いぜん、NYのニューミュージアムで見たアンドレアス・セラーノの『ピス・クライスト』、ブルックリン美術館で展示されたダミアン・ハーストの”牛の輪切り”を一瞬思い出したが、この作品はそうした衝撃的なアートとは一線を画したものなのだろう。NY在住の野田正明さんに言わせると、センセーショナリズムで話題性を呼ぶのもアーティストの戦略ということだが、今回は作品を見せないことで逆に注目を集める形となったかもしれない。
余談だが、シアトルの友人が自宅介護の仕事をしており、自殺未遂の若い男性の介護をしていたときの話を聞いた。両親は裕福で本人も賢く知的な子どもだったが、16歳か17歳の頃に橋から飛び降り自殺をはかり、半身不随になったという。手が動かせないので、やはり自分ではできない。何週間か経った頃、彼女に自慰行為の手伝いを頼んだそうだ。彼女が言うには、もしそういったことを頼まれたらすぐに上司に連絡するように言われていたので、連絡したら翌日から担当が変わったという。そのときの彼女の浮かべた複雑そうな表情を、いまでも覚えている。
その話を友人にしたところ、障害者の性について書かれた本『セックスボランティア』のことを教えてもらった。オランダやデンマークでは性のお世話をする人のための予算が組まれており、政府が利用者に補助金を出したり、社会的にも認知されているという。考えてみれば当たり前の権利。日本ではタブー視されている分野だけに、こうした制度の確立には時間がかかるかもしれない。
Posted by hiroko at August 12, 2004 10:30 AM | TrackBackひろこさんどもども。「木村さん」はインパクトありますね。これがアーティストの戦略なら簡単に乗ってしまった感じですが・・・。前に静嘉堂文庫美術館所蔵の「曜変天目茶碗」という陶磁器の写真を見たんですが「これは宇宙茶碗だ~」と、小学生並に深く考えることもなく感動したんですが、高嶺格さんの展示とくらべて
単純に同じ美術館という名前でも中身は結構ちがうんだなと思ってしまいました。え~、谷で例えて言ったら谷良子と谷啓ぐらいちがうかな。
横浜美術館の作品展もそうですが今のアートって、プロパガンダや思想の主張のようでおしゃれな政治活動みたい。個人的にアートが政治活動でも、すし屋で中国人が寿司握ってってもまあどっちだっていいんですが僕なんかには漫画とかTVとかドラマとか身近なところにでこういった障害者の性の作品が出てきて、いい方に話題になれば作品に映し出された木村さんもちょっとだけ生きていきやすくなるのかなと。
障害者の性ではないんだけど、IWGPの原作者・石田衣良さんの女性専用の売春クラブの話で、「娼年」というのを読んだんですがもちろんフィクションなんだけど老婦人と性交するくだりなどあって、以外に昼ドラとかにしたら第二の真珠婦人ぐらいの話題作になるかもなんてことも思いながら、自分の奥さんが年取ったら抱けるか、障害を持ったら抱けるのか、と考えたら正直複雑な気持ちになりました。なんか風俗嬢って社会に結構貢献してるな~。
うえのっち、久しぶり! いや〜、谷亮子はすごかったね。彼女の試合のあの物凄い緊迫感にびっくりした。でも、谷啓も、中野裕之さんの映画でのボケ役ぶりが好き。
さて、 「木村さん」に関しては賛否両論あると思うけど、その作品を見た人が障害者の性に興味を持ち、調べて行くうちに、テレビCMやドラマで演じられる日常生活や、均質化されたライフスタイルとは異なる生活を送っている人がいると気づくかもしれない。これまでは見えなかったものが見えるようになるって大事なことだと思う。
もちろん、嫌悪感を感じる人のほうが多いと思う。この作品のことを知り合いに話したら、頭ごなしに「見たくない」と言われた。アーティストが倫理感を失って、注目を集めるためのパフォーマンスに流れていると言う人もいる。
でも敢えて言えば、木村さんも、メッセージを伝えたかったので映像の公開を承諾したんだと思う。障害者の性の現実を知ってほしいという思いがあったんだと思う。ユージン・スミスが撮った水俣病の親子の写真が、アニタ・ロディックにボディショップを作らせたように、高嶺さんと木村さんの映像から社会を変えようと思う人が出てくるかもしれない。
政治的なテーマでもそうじゃなくても、人に何かを感じさせずにはおかないのがアートかも。ところで、3日前くらいに、としやすが池田さんという音楽エンジニアの人と一緒に家に遊びに来たよ。うえのっちも知ってる?
Posted by: hiroko at August 17, 2004 12:06 AMぼくも4,5日前になるとおもんだけど久しぶりにトシヤスくんから電話があって、エンジニアの人と道玄坂で飲んだときに旨い黒ビールを見つけたから今度行こうっていって誘われたんですが、僕あんまり飲めないんでじゃあお茶でも、って話をしてたとこですよ。池田さんは知らないんだけどその人じゃないですかね。そうそう、トシヤスくんの実家の方が新潟の水害で家族は無事だったらしいですが、大変だったらしいですね。
Posted by: ueno at August 17, 2004 01:58 AM日本の美術展、性に関わることになるといつも一部隠したり公開中止になったりの問題がついてまわりますね。思い出したのは96年のビッグサイトでの「アトピック・サイト」「オンキャンプ/オフベース」展。今ではウェブでもあまり情報がありませんけど。
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/nmp_b/information/Aug06_j.html
このときは複数の検閲問題があったけど、女性作家シェリー・ローズの空気で膨らました3mほどの全裸男性全身像の作品が勃起した局部があるので問題になりました。一度公開したらすぐに中止、布で腰巻きするなら許可、など二転三転しました。でもこの作品はシェリー・ローズの亡くなったボーイフレンドへのオマージュだったのです。話を聞いて悲しくなりました。アートって作家の感情やそれを通しての社会の文脈と密接に関係してるものなのに、それと無関係に法律を機械的に解釈して当てはめようとする法執行機関。これでは日本ではずっとすれ違ったままかもしれません。
障害者の性の世話をすること、本人たちが信頼し合っていて合意があるなら私はまったくかまわないと思います。例えば世話する人が恋人だとしたなら性の世話があっても理解できるでしょう。じゃ、第三者が世話するなら違いはどこにあるのでしょうか。嫌悪感を感じる人がいても不思議じゃないと思うけれど、でもその感覚を社会規範のように拡大して考えたり、あるいはその規範を正当視して法律にしようとしたりするのはちょっと違うと思います。そういう難しさがあるのを承知で作品にする決断をした高嶺さんと木村さんに拍手を送りたいです。
以前6年くらい続けてアメリカで障害者とテクノロジーのコンファレンスを取材してたときがあって、5000人くらい集まる会議だけど半分くらは障害者なので、様々な人たちが来ます。目の見えない人と聾唖の人のカップルなどが互いを助け合ってるのには感動します。普通に生活していたら考えつかないライフスタイルがあるのですよね。それを伝えるのにアートは有効なもののひとつだと思います。
Posted by: gt at August 17, 2004 03:21 AMNYでもジュリアーニ市長時代の1999年、イギリスの若手作家の作品を集めたブルックリン美術館の展示会「センセーション」の展示内容が問題になりました。"牛の輪切り"や人食いザメのホルマリン漬けなどグロテスクに映るものから、黒人のマリア像を象の糞やポルノ写真で飾ったクリス・オリフィの作品「聖母マリア」といった、宗教への冒涜行為にも解釈されるセンセーショナルな展示でした。ジュリアーニ元NY市長はとくにカトリック系ということもあり、「聖母マリア」に憤慨し、この作品の展示を中止しなければ、同美術館への市の援助をカットするという強硬姿勢に出ました。
だけど、同美術館は、このNY市の行為が表現の自由を保障した憲法修正第1条に違反するとして、逆にNY市を相手取り提訴してしまいました。もちろん、当時のNY市民のすべてがブルックリン美術館を支持していたわけではなく、美術館の外では動物愛護団体や宗教団体が反対デモをやっていました。それでも、美術館側は表現の自由を守るために展示を続行し、おおかたのニューヨーカーはたとえそのアート作品が醜悪なものであったとしても、政府の圧力により見れなくなることのほうが問題だと考えていました。
一方、日本の場合は、美術館側の自主規制ということで、政府からの圧力がかかる以前のお話なんですよね。問題が起こりそうなものは、最初から取り除くという行動が一般的になれば、私たちは何が検閲されて何がされていないのかも分からなくなってしまうという危惧を感じます。
Posted by: hiroko at August 17, 2004 02:05 PM以前、サイファーパンクの知人Eric Hughesが「the policeman inside」の話をしていました。自分の心の中に警官の人格を住み着かせてしまって自主規制、自主検閲に疑問を持たなくなる状態のことです。元の出自はWilliam Burroughsだそうで、93年にWiredにWilliam Gibsonが書いたシンガポールについての記事「Disneyland with the Death Penalty」にも参照されていてこちらも話題になりました。
そのような「policeman inside」の人が増えていけば、表現の自由はけっこうなし崩し的に失われてしまう危険性があると思いますね。そして「policeman inside」の人を増やすためには、ちょっとした居心地の悪さをあちこちに用意することで可能になるのでしょう。例えばアートも含め目立つものには猥褻や違法のレッテルを張ってハラスメントしたり、あるいは許可を取るための書類手続きを増やしたりすることで出来ます。あるいは判断する立場にある人の役職や収入を人質に取ることで追い込むことでも出来ます。これって東浩紀さんの云う「環境管理型権力」の作用の発現のひとつじゃないかと思いますけど。
それでなくても日本て自主規制に疑問持たない人が多い気がします。せめて美術館は意識的であって欲しいですよね。あるいはそこ挑戦しているキュレーターは応援したいです。
たしかに、法的規制を避けるための自主規制がエスカレートしてしまい、逆に表現の自由を制限してしまうことになったら危険ですね。障害者差別につながるという理由で、スイカ割り、ムカデ競争、障害物競走などを禁止したり、鯉のぼりで雄が上になっているのは女性差別なので棹を水平にして吊るしたりする学校や自治体があるそうです。考える力が低下しているのか、反対運動を恐れているのか、、。
Posted by: hiroko at August 18, 2004 06:03 PMNY在住のアーティスト、渡辺真也さんの意見です。許可をもらって掲載してます。
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ビデオ・パフォーマンス作品「木村さん」はイングランドで展示したときは賛否両論だったと聞きました。また埋葬方法など、文化の違いの問題が議論に出ていましたが、私は5月に高嶺さんをパフォーマンス美術史家のローズリー・ゴールドバーグに紹介し、作品を高嶺さんから直々見せてもらいました。いろいろと他の作品を見せてもらい、最後に「木村さん」を見せてもらったのですが、ローズリーの反応は嫌悪そのものでした。「何でこんなもの見せるの?もう、トラウマになりそう」と言って、数日間その作品の悪口ばかりしていました。いままでキャロリー・シュニーマンやらの超絶パフォーマンスを長年見てきたローズリーがそう言うのだから、まあ、裏を返せばそれだけインパクトのある作品だったのでしょう。
私は「日本ではここ数年、身体障害者のセックス・ケアの問題が公共の場で議論になっており、それはニューヨークで言えば同性愛者の結婚と同じく、社会的な関心になっている。だから作品に対してもそういった視点を持って欲しい」という話をしたのですが、それでもやはり「あの作品はイヤ」と言っていました。息子さんの前で見せられたのもイヤだった様です。確かに、障害者の精子が飛ぶ瞬間を見せられて、いい気持ちになる人は少ないでしょう。しかし、ローズリーは高嶺氏の顔につけられたビデオカメラが捉えたアップの映像は面白い、と評価しておりました。
ニューヨークで同性愛者の結婚の話は人工妊娠中絶と一緒で、非常にセンシティブなトピックの一つでもあります。私はそれについて聞かれたら「同性愛者の結婚を認めたら、結婚制度そのものが無意味化するから、同性愛者同士の結婚は支持しない」と応えているのですが、中には変にリベラルな人達、またはマニフェスト・ディスティニー的な吸引力に引き付けられた「良いことをしたい人達」が認可しようと必死だったりして、私の様な意見を持つ人を必死に説得しようとしたりと、笑えない現状があります。つまり、障害者のセックスケアの問題についても、同性愛者の結婚の様に、日本やオランダなど、またはアメリカ、その他のヨーロッパ諸国でかなりの温度差がある様です。
少し内容がずれてしまいましたが、検閲の問題を考える上で今回のケースは重要な問題をはらんでいる事に間違いはないでしょう。
渡辺真也
http://spikyart.org
そうですね、アートはその作り手の居る社会の文脈と密接な関係があるとして、当然作品を見る人はその人の居る社会の文脈から逃がれられないので、そこから国や文化によって様々な温度差が発生しますね。
それで思い出したのが、これも極端に近いアートのひとつかもしれませんが、もう15年以上前になるけれど、John Duncanというアメリカ人の音響パフォーマンスなどを使うアーティストが死体との性行為パフォーマンスをしたということで物議をかもしたことがありました。ただしそれは、メキシコのある隔離された場所で本人のみで実行されたものという話で、その時の音といわれる録音テープがあることと本人がそう主張してること以外は記録は提示されなかったのですが、その話だけでも多数の人に嫌悪感を持たせるには充分だったようでした。あるアメリカの音楽雑誌の記事に数行触れられたのを見たことがありましたが、翌月号の読者投書ページは彼の行為を非難するコメントで埋まりました。
Duncanはその後日本に来ていて、じつは私の古い女友達が結婚したりしたこともあって個人的に少し知っているのです。ある種杓子定規にも見える真面目なタイプの人という印象でした。ただし件の録音テープを聞かせてもらう機会はなかったです。で、女友達の説明によると、Duncanがそのパフォーマンスに行き着いた理由というのは、彼はアメリカのキリスト教的なものが大嫌いで自分の中にもそれが染み付いているのを憎んでいて、その自分の中のキリスト教的なものを抹殺するために行ったのだ、という話でした。そこでLAに行きコーディネートしてもらったところメキシコの死体置き場がアレンジされたのだそうです。私もここまで聞いてやっと彼のバックグラウンドがなんとなく理解できるような気がしましたが、アメリカ文化にある宗教影響についての文脈にかなり結びついていたわけです。(この点については彼はインタビューなどでは触れてないようですが)
ちなみにDuncanはキリスト教に限らず宗教は全部嫌っていたのはたしかでしょう。友達が結婚するときも宗教関係の所はすべてイヤだというので、「xx長」と付く人が宣言すれば良いから船長ならokと葉山でヨットを借りて結婚式したと聞いてました。(その後二人はアムステルダムに引っ越しましたが7年くらいたったら結局ありがちに離婚してしまったようですけど)
でもこの話で私が一番びっくりしたのは、彼のそのパフォーマンスよりも、そのような要望ですらコーディネートできてしまうLAの性産業の方にでした。また、あの投書欄で彼の行為を非難していた人たちは、お金さえ用意すればこのような極端な要望までかなえてしまえる自国アメリカの文化について、どのように感じているのか知りたい気がしました。
これも検閲の話とはそれてしまいましたけど。
http://www.johnduncan.org/
John Duncanのインタビュー記事、読みました。
http://www.johnduncan.org/interview.jp.html
作品を聴いていないので何とも言えませんが、幼稚な自分探しのような気がします。本人はアートと思っているのかもしれないけど、性産業の世界では、死体、幼女など何でもありの世界になっており、彼の行為がほかの死体フェティッシュな人々とどう違うのかが分かりません。インタビュー中、「自分にを罰を与えたかった」とありますが、死体の女性や彼女の家族の気持ちをまったく無視して勝手だなあと思ってしまいました。
インタビュー記事に出てきたほかの作品に関しても、作品に参加している人々の気持ちを考えない、逆に観察しているような冷たい感じがします。キリスト教的なものが嫌いというよりも自分が嫌いなのだと思いますが、死体の女性が可哀想だと思ってしまいました。
Posted by: hiroko at September 1, 2004 03:34 PM幼稚な自分探しというの、当たっていると思います。私も今になってこのサイトを見てみるまでDuncanが他にどのようなことをしてきたのかほとんど知りませんでしたが、「Scare」などでも、いきなり人の家のドアを叩いて拳銃で空砲を撃つなど、これも自分勝手な視点ですね。なんだか他人を刺激することをやってみて、人がどこで嫌悪感を示すかの閾値を観察しているような感じがします。
死体とのパフォーマンスにしても、彼がもし本当に行為をしたのならただの死体愛好者だし、もしやったと主張しているだけなら他人を刺激して嫌悪の様子を観察してるだけかもしれません。どちらにしてもそれを公表するのはセンセーショナリズムだけの感じもします。特にこのインタビューの印象は、本人と話した時の印象に比べてずいぶん自分で自分を脚色してる感じがしました。
当時、死体とのパフォーマンスの話を最初に聞いたのはその女友達からでした。でも聞いてからも半信半疑な気分で、なんだか無感覚でした。たぶん、そういう行為ができる人間がいるのを信じたくなくてdetachmentしてしまったのかもしれません。
そのためか、もし「そのテープを聞かせるから」という話になったらどうしようかと思っていました。はっきり言って気持ちの上では聞きたいとは思わなかったからです。もし批評のために聞くことが必要だというなら我慢したかもしれないですが。その現場を想像してしまいそうになる自分と、それに嫌悪を感じる自分とがありましたから、考えたくなかったです。
何が「罰」になるのかもよくわかりません。愛していた存在の亡骸を前にして泣いたことのある人なら、こういう行為にいたることは少なくとも思いつかないでしょうから。
Posted by: gt at September 2, 2004 03:23 AM