February 06, 2004
being a sneakerhead
Complex Magazine - SNEAKER ADDICTS
There’s a Jordan I Retro (exclusive to Japan), a pair of Air Force Cocoas (another Japan exclusive that features fake lizard-skin), a tan Nike Stüssy Dunk high-top. A kid comes up, points to a shoe. “Yo, how much are these?” “They are, um, five,” says Nathan. “Five hundred,” he clarifies. The kid holds a poker face for a half-minute, then lets out a low whistle. “Damn, those joints are fresh!”
これらのスニーカー、日本ではいくら位するんでしょうね。日本オンリーのスニーカーを向こうで売るとけっこう稼げるかも?
September 21, 2002
エボニクスをめぐる論議
私が初めて「エボニクス」(Ebonics)という言葉を聞いたのは、昨年の暮れも押し迫った頃だった。エボニクスとは、「エボニー」と「フォニックス(音声)」という言葉をかけ合わせた黒人英語を意味する造語で、1973年に黒人心理学者のロバート・ウィリアムス博士により提唱された、黒人英語を自分達の文化として尊重しようとする積極的な意味を持つものだった。
しかし、昨年12月18日、カリフォルニア州オークランド統一地区教育委員会である発表がなされて以来、この言葉はまったく異なる意味合いを持つようになった。同教育委員会は、エボニクスは「標準」英語の方言ではなく、アフリカに起源を持つ異なる言語だとした。この決定に対しては全米中で議論が沸き起こり、黒人達は自分達が突然、外国語を話すグループとして位置づけられたことに対する驚愕や不快感を露にした。
この決議の背景には、同地区での黒人生徒の成績の伸び悩みがある。同地区の教育委員会が発表した統計によると、黒人生徒の平均成績は人種別で最低、また標準テストの成績も落ち続けている。さらに、全生徒51706名に占める黒人生徒の割合は53%なのに対して、特殊学級に入っている黒人生徒の割合は全体の71%と圧倒的に高く、停学処分の生徒もその約80%が黒人生徒で占められている。
同教育委員会では、これは黒人生徒の話す言葉を教師が理解できないために生じる問題だと考えた。そこで、黒人生徒と教師のコミュニケーション能力を高める目的で、教師にエボニクスを教えるプログラムの確立のために連邦政府の資金援助を求めた。ヒスパニックやアジア人生徒はバイリンガル用プログラムの資金援助を受け、成績を伸ばしている。黒人に対しても同様の資金援助を受ける権利があると考えたのだ。
同教育委員会の目的が、黒人生徒のための援助獲得という部分にあることは、評価すべき点である。しかし、その援助を受ける方法としてエボニクスが異言語なので教師はそれを学習すべきだとする同教育委員会の論理に対して、主流メディアは反発を感じ否定的にこれを報じた。この報道により、多くの黒人達は同教育委員会を批判し、ジェシー・ジャクソン師やNAACPもすぐさま反対の意を表明した。しかしその後、ジャクソン師はオークランドまで足を運び、同教育委員会と直接話をしたあと反対意見を撤回している。これは、彼が同教育委員会の決定の真の目的を理解し、それに賛同したからに他ならない。
実際問題としては、教師にエボニクスを教えることが直接的な問題解決につながるとは思いがたい。なぜなら、教師達の心のなかにある差別や偏見が、黒人生徒の学校での成績の伸び悩みを招いているからだ。エボニクスを話したとき教師に嫌な顔をされ、言葉が出なくなったという黒人生徒も多い。それは、言葉の理解の問題以前に、生徒を本当に理解しようとつとめる教師が少ないことを表している。
生徒の成績が悪いのは、生徒の責任というよりも生徒をいかに導くかという教師の責任だ。私の友人の何人かは小さい頃、教師から侮辱的な扱いを受けたことで劣等感を感じたという。これら有形無形の差別の総体が成績という結果となって表れているのであって、言葉とはその差別を受けているグループの特徴を代表しているのにすぎないのだ。したがって、問題の根幹となっている黒人生徒と教師間の精神的な溝を取り除かない限り、いくら教師がエボニクスを流暢に話せるようになっても事態は改善しないだろう。また、この問題に関してエボニクスは異言語か否かというような議論よりも、黒人生徒を援助することに対して暖かく歓迎するような世論が形成されないことの方が問題の根深さを語っているといえる。(97/09/01)
September 12, 2002
ALL POWER TO THE PEOPLE
9月13日、ニューヨーク大学で、ブラックパンサーに関する映画上映会とパネル・ディスカッションが行われた。会場のカンターホールに着くと、入り口付近からすでに1ブロックほどの長蛇の列ができていた。まず、リー・ルーリー監督のドキュメンタリー映画「ALL POWER TO THE PEOPLE」が上映され、その後、ブラックパンサー関係者によるパネル・ディスカッションが行われた。
映画は、ブラックパンサーの始まり、その活動内容、またパンサーの運動に対する米政府の弾圧などを、総計100時間にもおよぶ45人へのインタビューを通して様々な角度から赤裸々に描いている。CIAやFBIがいかにブラックパンサー・メンバーを弾圧し暗殺していったかというアメリカの隠された歴史を、映画は1960年代のアメリカの主要指導者、マルコム・X、マーティン・ルーサー・キング牧師、ジョン・F・ケネディ、ロバート・F・ケネディなどの暗殺とともに我々の顔面に突きつける。
ブラックパンサーは、1966年、黒人コミュニティを黒人自身で改善するために雇用増加、教育の充実など10カ条の目標を掲げて設立された。そのなかには「資本家たちの搾取から黒人コミュニティを守る」(第3条)、「黒人に対する警察の暴力の即時停止」(第7条) などという現在でも通用する内容が含まれている。
ブラックパンサーは急速に拡大していき、その活動はオークランドのみではなくニューヨークやシカゴなど全米へと拡がっていった。毎日1万人への食料提供、様々な政治的抗議など、パンサーの活動はだんだん政府の脅威となり、そこから手段を選ばぬパンサー破壊工作が開始されていった。ボビー・シール、ヒューイ・P・ニュートン、エルドリッジ・クリーバーなどの有力なリーダーが不当逮捕され、シカゴの有能な若手リーダーのフレッド・ハンプトン(21歳)も暗殺された。就寝中のハンプトンに無数の弾丸を打ち込んだ警官らは、逮捕もされず何の刑罰も受けていない。
映画上映後にパネル・ディスカッションが行われたが、最初にリー監督は「この映画の本当の監督は、映画に登場するすべての人々や活動家、また観客だ」と語り、会場からの喝采を浴びた。キャサリン・クリーバー(エルドリッジの妻、ジェロニモ・プラットの弁護士)、ソフィア・ブカリ(ムミア・アブ・ジャマールの弁護団の一員)、ハーマン・ファーガソン(元ポリティカル・プリズナー、マルコム・Xの設立したOAAUのオリジナル・メンバー)、ジョナサン・ルーベル(ムトゥル・シャクールの弁護士)、ジョン・ジャッジ(CIA研究者)らが、それぞれの視点からブラックパンサー運動とそれに対する政府の弾圧を語った。
クリーバーは、彼女がブラックパンサーに参加してからというもの、現在まで政府の「コインテルプロ」(COINTELPRO:COunter INTELligence PROgrams) の標的になっていると語った。コインテルプロとは、あらゆる手段を尽くして民族解放グループ(とくに黒人)を破壊するFBIのタスクフォースで、マーカス・ガーヴィー運動に対する破壊工作あたりから本格化したと言われている。
また、ルーベルはアメリカの歴史は「スニッチング」(Snitching)の歴史だと語った。スニッチングとは、無実の罪をでっち上げ民族解放グループのメンバーを陥れることを指す。さらにファーガソンは、奴隷状態を維持するために政府は「ハウスニグロ」を使うとし、それがNAACPだと語った。
数々の暗殺や弾圧により、1960−70年代の民族解放グループ運動はほとんど破壊され、多くの活動家がいまだに無実の罪で刑務所に閉じ込められている。映画の最後で、日系運動家ユリ・コウチヤマさんは「我々は、刑務所で現在も戦っている人々を決して忘れてはならない」と語った。(97/11/01)
September 10, 2002
CIA→Crack→BlacK CommunitY
アメリカ都市部の多くの問題のなかでも、ドラッグは非常に深刻な問題だ。ドラッグの濫用は人間の身体だけでなく精神をも蝕み、周囲にも影響を与えていく。現在の黒人コミュニティの抱える問題の多くもドラッグにかかわっており、とくに1980年代のクラックの登場によりコミュニティは甚大な被害を受けた。それまで強固な共同意識に守られていた黒人コミュニティは、コカインから作られるこの安価で質の悪い麻薬により、ディーラーとクラック・ヘッド(中毒者)の徘徊する荒廃した土地に変貌していった。クラック取引で何万人もの若者が刑務所に送られ、縄張り抗争の銃撃戦で多くの命が失われた。
そのクラック・コカインを黒人コニュニティに持ち込んだのが、他ならぬ米政府だといえば耳を疑うだろう。しかし、それを裏付ける記事が1996年8月18日付けのサンノゼ・マーキュリー紙に掲載された。ゲイリー・ウェブ記者による3日間の特集記事「ダーク・アライアンス」は、米国中央情報局(CIA)の支援を受けたニカラグアの反政府勢力が、武器購入の資金調達のためクラックを黒人コミュニティにばらまいたということを詳細に伝えている。同記事は発表と同時に全米中で議論を呼び、テレビやラジオ、インターネット上で多数の討論がなされたほか、カリフォルニア州のマキシン・ウォーターズ民主党下院議員もこの記事を取り上げCIAを非難した。
1979年、ニカラグアでは米政府の支援を受けた独裁者のアナスタシオ・ソモザが倒れ、キューバ政府の支援を受けた社会主義のサンディニスタ党が政権を握った。その後、CIAは同政権の転覆をはかり1981年に反革命・反政府ゲリラ軍のFDN(通称コントラ)を設立した。同記事によると、その党員であるノーウィン・メネセスおよびダニーロ・ブランドンが中心となり、大量のコロンビア産コカインをLAの黒人コミュニティに持ち込んだという。その方法は、メネセスと緊密な関係を持つサルバドル空軍高官により、サルバドル軍用機を使ってコカインをテキサスの米空軍基地に運んだというものだ。これをLAのサウス・セントラルの黒人ディーラー、リッキー"フリーウェイ"ロスがばらまいた。
この記事に対し、ワシントンポスト紙やニューヨークタイムズ紙などの主要マスコミはそろって否定的な見解を述べた。また、CIAも記事内容は不正確だという見解を発表した。しかし、こうした主要メディアの非難にもかかわらず、ゲイリー・ウェブ記者は業界団体「ソサエティ・オブ・プロフェッショナル・ジャーナリスト」の1996年度ジャーナリスト賞を受賞している。
また、多くの黒人達はこの記事内容を信じるどころか周知の事実だと捉えている。安価なコカインが黒人コミュニティへ大量に流入するには、何らかの政治的な力が働かない限りは不可能だ。コントラ闘争は現在では過去のものとなったが、南米からのクラック流入・販売ルートは維持され、アメリカの黒人たちはいまだにクラックのもたらす被害に苦しんでいる。
同記事によると、ブランドンは連邦裁判所で「目的のためには手段を選ばずという諺があるが、それをCIA員が我々に教えてくれた」と証言している。通常終身刑にも匹敵する罪を認めたブランドンは、2年の実刑判決のあと1994年に釈放され、その後は米国麻薬取締局(DEA)の情報屋として働き16万6000ドルを受け取っている。また、メネセスは実刑判決すら受けていない。(97/10/01)
September 21, 2001
ハーレムの教会にて
セント・ニコラス通りと125丁目の交差点近くのアパートに住んでいた時、私の部屋の上の階にはアイリーン・ミラーという敬虔なキリスト教信者が暮らしていた。彼女は、毎週日曜日には必ず教会に行っている。その日彼女は、私を教会に連れて行ってくれた。
午前11時半、私達はアパートを出てグレイター・リフジー教会(GREATER REFUGE TEMPLE)へ向かった。125丁目を東に進んでアダム・クレイトン・パウエル・ビルの四つ角を右に曲がると、ストライプに塗られた四角い建物が見えてきた。それが、教会だった。階段を登り入り口のドアを明けると、そこはもう既に会場だった。ゴスペルが流れ、壇上の人々はライトに照らされ、輝いていた。歌が終わるのを待って私達は席に着き、もう2〜3曲ゴスペルを聴いた。
次に、牧師の話が始まった。最初は静かに、そしてだんだん力強く神の教えを説き、最後には叫びながら神を讃えた。そしてそのままゴスペルを歌いだし、それは聖歌隊の力強く美しい声と重なり会場の人々も一緒に歌いだした。人々は思い思いの方法で神を讃え、自分達の苦しみをそこで洗い流すかのように手を上げたり頭を振ったり涙を流している。
私は、二曲目に流れたアップテンポの曲で、人々が立ち上がり体を揺らし神を讃えて歌っているのを見て、涙がなぜか溢れてきた。人々の祈りと叫びが大きな渦になって私に押し寄せてきて、私はそれに飲み込まれ、その集積が私の心を揺さぶったかのように感じた。それは、ただ本当に感じたのだ。理屈も説明も難解な理論もなにも要らない。純粋な祈りはただそれだけで、人の心を揺り動かす何かを持っているのだろう。
私は、本当に泣いていた。私のすぐ前に座っていた黒いスーツを来た男の人は、歌の途中で立ち上がり、体を揺すり手を叩き足を踏みならして神に祈りを捧げていた。その前の席の女性は、両手を空に高く上げ、神の名を叫びながら、泣いていた。私は、彼らがなぜ強いのかが分かったような気がした。日常生活で受ける受けるいろんな圧力を、彼らはここで祈りの力に変換する。だからこそ、彼らの祈りはこんなにも強くて純粋な力を持つ。
ほとんどの日本人は、教会には行かない。それぞれの家に神棚や仏壇を持っており、それらに毎日供え物を捧げる人は多いが、慣習の一つとしてである。何か克服すべき問題を抱えている人や、人生を真剣に生きようとしている人ほど祈りに対する欲求が強いのではないだろうか。だから、日本人より彼らの方が、祈ることに対して数倍真剣なのだ。
祈りというのは、一人で祈るよりも大勢で祈った方がそのパワーは大きい。同じ場所で同じ歌を歌い全員で神に祈りを捧げるという行為は、目に見えない何か大きな力を生み出しているように感じる。それにより、人々は一体感を体験し、他人も自分だし、自分も他人の一部だと気づくのだろう。
教会を2時に出て、私達はアイリーンの家に戻った。娘で14歳になるデビーとしばらく話し、ソウルフードを一緒に食べた。(1996年11月2日)
September 02, 2001
JAM ON THE GROOVE
ヒップホップのミュージカル!「JAM ON THE GROOVE」!プレミアム公演の抽選がビレッジ・ボイスの一面を使って宣伝していたし、バイブ・マガジンにもたくさん広告が出ていたので、これはなかなか期待できるのではないかと思っていた。ROCK STEADY CREWやMAGNIFICIENT FORCE、そしてRHYTHM TECHNIQUEなどのストリートのダンスチームのメンバーが設立したGHETTO-RIGIONAL PRODUCTIONS DANCE COMPANYというダンス・カンパニー主催のミュージカルだった。リンカーンセンターやアメリカ公演など、彼らは数々のショウを重ねている。
しかし、私はいいと思わなかった。踊りが古いし、全体的に洗練されてなかったからだ。でも、ヒップホップ・ダンサーの友人は、ダンサーの目から見てあれは凄かったという。ニューヨークに来て一番感動したのは、あのミュージカルだったという。なぜならば、まず踊りが上手い。ブレイクダンスというのは、ハウスダンスや、ヒップホップダンスの基本なのだそうだ。だから、それがきちんと出来るという事は、とても凄い事なのだそうだ。それが出来ずにハウスやヒップホップに流れるダンサーも多いという。
次に、ミュージカルの雰囲気が良かったそうだ。親子連れだったりカップルだったり、微笑ましい光景だったという。私からしてみると、これを観て何も知らない人達が「ああ、これが最先端のダンスなんだ」って、勘違いして帰って行くのがいやなんだけど。(1995年11月26日)
2パックの死以降
ヒップホップは、死んだ。PEやKRS-ONEなどがラップを政治的な意志表明に使い、DE LAやATCQがラップをダウンタウンに持ち込んだまではよかった。しかしそれ以来ラップはどんどん商業化され、西海岸のギャングスタが事態を最悪にした。今のラップは、ハードコアとコマーシャルにはっきり分かれている。そしてそれが、黒人達の断絶を深めている。
ハードコアは電波にももう乗らない。カレッジやオフィスの黒人達は、「ホット97」はハードコアすぎて聞けないと言うが、あれだってゲットーの男の子達が聞いているようなブートレグのテープに比べれば、まだかわいいものだ。そういったテープには、流行った曲の替え歌とか、きつい下ネタとかがたくさん入っている。私が聴いたブロンクスのコープ・シティ(CHI-ALIやPOSITIVE Kなどが住んでいる)の地元DJ達が作ったテープは、MARY Jの「I'M GOING DOWN」とBRANDYの「I WANNA BE DOWN WITH YOU」を使って下ネタ・ラップをやっていた。音は、ラフでめちゃくちゃかっこいい。ラジオから流れるような、ラップの刺や角を全てばっさり切り落として作られている、綺麗でどこか間抜けな音ではない。だから本当に好きな人は、12インチを買う。ブートレグを買う。
しかし、一般に言われているハードコアは、商業化されたスタジオ・ギャングスタだ。憎悪と反社会的なありとあらゆるネガティブなイメージを与えられたラッパー達は、そうやって売れた後、そのイメージを保つことでジレンマに陥る人達もいる。2パックやビギーもそういった悩みを打ち明けている。そして、大量生産されたゲットーのイメージを消費している人々は、ゲットーの黒人や白人のサバービアンのガキだ。
黒人コミュニティがそういったイメージに踊らされ、そのイメージを強化していることも事実だ。ネガティブなラップを聴いて不必要な憎しみを増幅させる若者達が、大勢ゲットーにいる。しかし、コミュニティにおける様々な問題の原因は、何なのだろう?それは、勿論ラップから始まったのではなく、アメリカの差別の歴史によってコミュニティが負わされた業から始まった。ネガティブなラップはその現実を描写する事から始まり、その後は売れる為の手段に形を変えた。だから、ネガティブなイメージを商業化し、それをエキセントリックなものを求める若者達の餌にした企業は、考え方を改めなければならない。ホット97の提唱する「ドラッグ・フリー、ガン・フリー、ヒップホップ・ネイション」が実現するのは、そうやって考えるとほど遠い先のことのように思える。
また、コマーシャルなラップは、今のポップスのあらゆる所に浸透し、もう今でははっきりヒップホップとは認識できないところまで来ている。その作り手は、どんどん大手のコングロマリットに吸収され大衆化(アメリカ化)されていく。バッピー達には、ハードコア・ラップは反社会的すぎるので、軽めのラップや大抵はR&Bに流れていく。また最近は、「オールドスクール」が好きな人が増えている。クラブ好きやダンサーは、今のラップってどろどろしていてノレないと言う。ダンスミュージックにはならない所までハードコア・ラップは進んでいて、ジャズや他の音楽が辿って来た道と同じ道を進んでいる。
ヒップホップは、金儲けのための手段に成り下がって、日本の若者に対しても多くの誤解や幻想を生み出し続けている。そういう意味で、ヒップホップは死んだ。金儲けや遊ぶ事しか考えない人達が殆どの世界で、文明社会の中の倫理感の喪失した場所、ゲットーの荒廃度は回復不可能な所まで来ている。それに関わりたくないバッピー達は、彼らにほとんど関心を示さない。その状況を本当に変えたいと思ってスピーク・アウトしている人達のみが、いいラップを作り続けていけると思う。(1996年10月12日)
サウス・ブロンクス/SCOTT LA ROCK
夜のとばりが街の喧噪を覆い尽くし、夜行性の動物たちが地下の廃虚から這い出してくる頃、私たちはハイ・ブリッジへと向かった。フォーダム・ロードからグランド・コンコース通りをどんどん南へと下って行く。それは、強盗列車と謳われた悪名高き4番列車の道筋である。
夜のライトに照らされた道ばたにたむろする若者たちの黒いフードが、朽ちかけた建物に不気味な影を落としている。彼らは1ブロックごとに一つの固まりとなり、建物の入り口の階段からすべての通行人を見張っている。まるで、一匹の獲物も見逃さないかのように。ここへ迷い込んだ不幸な旅人が、何人命を失ったことだろう。車のステレオから流れるラップ・ミュージックが、一番しっくりくる場所。ここには何の妥協もない。何者の介入も許されない。私は、友人がそこに住んでいるという手っ取り早い言い訳を見つけて、その場所へ滑りこんだ。そして、車がグランド・コンコースから右へそれてどんどん奥地へ入っていくにつれ、私の心臓の鼓動は高まり私の耳に流れ込む低いラップのビートと重なった。
私は混乱していた。期待感は恐怖と怒りとでずたずたに引き裂かれ、その後には、混乱と心臓の高鳴りだけが残った。ここは、生活の場である。人々はここで食べて寝て、話して歌って、そして恋をする。細い道を通りすぎた時、一台の壊れた車を見た。形骸も留めない程破壊しつくされた車は、その惨めな残骸を夜の冷気に曝していた。私は、その車とその後ろに広がる金網と廃虚の光景を忘れることが出来なかった。それは、この土地の運命を象徴しているように思えたからだ。互いに互いを傷つけあい、その叫喚はこの空間のみに閉じこめられ、いつまでも永遠に反響し続ける。
遠くの方で明かりが見えた。入り口が開け放たれた白い家は金網の中にある。中年の女性が洗濯物の取り入れをしているのが、ものすごく切なかった。私達はハイ・ブリッジの近くまで行った。壁一面のグラフィティ・アート。バスケットボール選手がダンクを決めている絵に「ストップ・ザ・バイオレンス」の文字が入っている。巨大な道端の芸術。私は彼にしばらくの間車を止めてもらうように頼んで、その巨大な壁画に最大の敬意を払った。
その建物を越えると、私達はプロジェクト(公共住宅地)の前にいた。ハイ・ブリッジ・プロジェクト。暗く静かな、そして何かが潜んでいそうな雰囲気に思わず私は振り返った。そして暗闇を見た。苦しい。何かが私を締め付けるようだ。車は静かに静かにその場所へと入っていく。KRS-ONEの唯一無二の相棒だったSCOTT LA ROCKが撃たれた場所へと。そして、バスケット・コート。ひっそりと静まり返ったそのコートを見た時彼が言った。
「あの場所が、彼が撃たれた場所だ」そして彼は、道をはさんで反対側の建物を指さし、彼を撃ったギャングが隠れた場所だと言った。私は目眩がしそうだった。
この土地には、数多くの墓碑がある。一人一人の墓碑が。RIP(Rest In Peace)というグラフィティ・メッセージが、ブロンクスの街の至る所に失われた若い命の名前とともに残される。限りなく尊く、この街を彩り守っている挑戦的芸術。車はまた動きだし、数ブロック先のドラッグストアの前をゆっくりと通り過ぎる。一固まりの若い影。彼らは今日も自分達のテリトリーを守っている。ギャングの抗争で死ぬのはいつも若い命だ。今日は何人の命が、銃によって飛び散ったのだろう。(1996年10月27日)
ミリオンメンマーチ
私の友人の一人は、プロジェクトで生まれ育ったStraight From Streetの人間で、ヒップホップ文化の申し子みたいな奴。彼は、日常のすべてをギャングスタ・ラップ感覚で見つめる。女の事を「ビッチ」と呼んではばからない!同性愛者を馬鹿にする。R&Bを嫌いだと言う。インター・レイシャルなカップルにからむ。サグ・ライフを自称する人間にとって、人間的成長はかっこ悪い。
映画を観に行くのに「Nixonが観たい」と言うと、「敵の映画を観てどうするんだ」と言われた。「KRS-1も"I'm a kind of grad that Nixon died"と"Ah Yeah!"の中で言っている。そんな奴の映画など観たくない!」と言うのだ。あの映画はNixonを賞賛している映画ではないし、歴史を知る事は重要なのでは・・・?結局、その映画は観なかった。
その友人が生まれ育ったプロジェクトに、連れて行ってもらった。金網のフェンスがめくれ上がり、鉄線の刺が突き出す横で、子供達が遊んでいる光景にショックを受けた。荒廃という二文字がぴったりくる場所で「ここがゲットーだ」と威張っていたが、強がりが見えた。
そんな彼が、去年のミリオンメンマーチに行って少し変わった。会場にいたシスターに「ニューヨークからわざわざやって来たあなたのようなブラザーが、貴重な存在なのよ」と言われ、目覚めたのだ。彼は驚くことに「俺は真面目に働いて、結婚して黒人コミュニティに貢献する」と、ワシントンから帰ってきて開口一番に言った。いろいろ批判を受けているミリオンメンマーチだが、たった一人にでもいい影響を与えるのであれば、それはいい事なのではないかと思った。(1996年11月7日)








